Sr.ドナ・コリンズ講話 “Philippine, Pioneer Saint”
2018年5月26日(土)聖心女子大学学食にて
「聖ローズ・フィリピン・デュシェーン渡米200年祝い」準備委員会による、Sr.ドナ・コリンズの講話会に参加いたしました。Sr.コリンズは今回、日本の札幌、三光町、大学、インターナショナルスクール、不二、小林にて講話をなさいました。
Sr.ドナ コリンズご経歴
オーストラリア出身、現在カナダ・アメリカ管区。理科の教鞭をとっていた。
ソフィア・コミッションのメンバー。ローマ、Mother HouseのSecretary General(総書記)を経てProvincial teamに参加、フィリピン・デュシェーン渡米200年記念の準備委員会のメンバーとなった。
講話要約 “Philippine, Pioneer Saint”
初代のSecretary General(総書記)
1769年生~1852年没(聖マグダレナ・ソフィアより10歳年上)
身長は高く、大柄。顔に、子供の時にかかった天然痘によるあばたがあった。肖像画には地図を手に持っているものが多く、開拓者を意味している。
グルノーブル生れ、裕福な家庭で育つ。
上図出典 「フィリピン・デュシェーン 貧しい人々と共に歩んだ女性」2000年11月21日発行
著者 キャサリン・ムーニー 訳者 山口 晶子 発行所 聖心会
12才、訪問会の修道院がやっている学校に入った。その後修道会への興味が強すぎ、自宅に戻され花嫁修業をさせられた。
17才、叔母をだまして一緒に修道院に行ってもらい、着いたら、もう家には帰らない、と言って叔母だけ返した。修道院に入会。
フランスの革命時、シスターたちは皆、修道院を離れて生活した。フィリピンはひそかに慈善活動を行っていた。
混乱が収まった後、フィリピンは父に頼んで修道院を買い戻してもらった。シスターたちも戻ってきたが、修道院の状態が悪く帰ってしまったシスターも多かった。フィリピンが一人頑張っていたところ、ヴァラン神父がマグダレナ・ソフィア・バラの修道院を紹介し、ソフィア・バラとフィリピンの運命の出会いがあった。1804年建物、仲間ごと聖心会の霊的な指導の下についた。訪問会はなくなった。
アメリカから帰国した宣教者たちの話を聞いて、ニューオーリンズでの活動への夢が膨らみ、何度も、マザーバラに渡米を志願したが、機が満ちていない、となかなか許可を得ることが出来なかった。
やっと許可を得てからも、各種持ち物(聖具、教材、生活用品など)の準備、同行者(4人)の決定に時間がかかった。
パリからボルドーの港に移動、48歳にして渡米。長旅の間、嵐、船酔い、皮膚病等の体調不良に悩まされた。
アメリカ、ニューオーリンズに着くとUrsuline Sisters(聖ウルスラ修道会)に6週間滞在。
その後ミシシッピ川を上り、セントルイスを目指すが、司教の意向が変わったためミズーリ川のセント・チャールズに移動。農家(2部屋のみのRanch Style)で最初の学校を開き、自給自足の生活を送った。夜は繕い物、教科書の転写(複製)など行った。
その後、川向うのフロリサンに移設。2階建てのレンガ造りの建物だった。
各学年の生徒数が定まらず、したがって収入も不安定。
1821年、学校を建てるという条件でスミス夫人から土地と建物の寄付があった。場所は、奥地のグランド・コトー。2人の修道女が送られた。この学校は成功した。
フィリピン・デュシェーンはグランド・コトーを訪問、その帰りの船で黄熱病が流行り、患者を看病し感染してしまう。そのため船から降ろされるが、この降ろした船は座礁して沈没してしまい、多数の死者がでた。フロリサンに帰るのは本当に大変だった。
学校は奴隷なしでは運営できなかった。彼らにも読み書きを教え、彼らも修道会に入会できないか本国に諮ったが、偏見もあり叶わなかった。
フロリサンでは先住民の女子のための学校を建てる許可を得たが、資金不足で実現しなかった。
フィリピン・デュシェーンは、経営者としては才能がなかった。グランド・コトーとセントマイケルズの成功はフィリピンが運営した北のCity Houseとフロリサンの基盤の維持を助けた。
1840年、イエズス会がポトワトミの先住民への宣教を始め、デュ・スメット神父が一行に加わる様フィリピン・デュシェーンを誘った。71歳と高齢だったため反対もあったが、夢だった先住民の学校のために加わり、シュガー・クリークに向かった。
フィリピンは英語もあまり上手ではなく、先住民の言葉も習得できなかった。(ニューオーリンズは元フランス領でフランス人が多かったため、フランス語を使って生活できた。50歳を超えてからの英語習得では、理解はできても流暢に話せるようにはなれなかった。)
1842年、ポトワトミにログハウスの修道院を建てた。
先住民はフィリピン・デュシェーンを“The good old woman” や “The woman, who always prays”と呼んで、語りついだ。
一年後に体調を崩し、セント・チャールズに帰らざるを得なかった。したがって、先住民と過ごしたのは一年のみ。その後の十年間、畑仕事や身の回りの作業などに従事した。
1852年11月18日帰天。セント・チャールズの聖堂に遺体は安置されている。
What have we learnt?
・The value of steadfast purpose
・The success of failure and unimportance of our standards of success
・Divine desire and simple duty daily done
若者へのメッセージとして、
小さな「やるべきこと」を続けてやり遂げることの大切さ。
待つこと・指示に従順なことの大切さ。
聖心会の国際的な広がりはフィリピンによって実現した。
セントルイスでは偉人の一人として有名。(初めてのカトリック校を開いたことで)
フィリピン・デュシェーンは自分の能力不足で失敗したと思っていたことがマザーバラとの複数の手紙のやり取りから分かるが、私たちはそうは思わない。
参加したJASH会員からは、「デュシェーンが、自分のやりたいことや目的を達成するまで我慢強く待ち続けた忍耐力に感激した。」「貧しい人、神を知らない先住民にイエスのみ心を伝えるために、年をとっても情熱が衰えない姿は素晴らしい。」という感想がありました。