AMASC東京大会

1986年3月16日〜22日までの1週間、AMASC(世界聖心同窓会)の世界大会が東京で開かれました。世界各国から1000人近い同窓生が集い、聖心女子大学をメイン会場に分科会や交流会が行われました。2万人を超えるJASH会員が、心をひとつに開催した大会の様子を紹介します。

緒方貞子氏による基調講演

大会3日目(1986年3月18日)の緒方貞子氏(当時:上智大学教授・元AMASC顧問)による基調講演です。ぜひお読みください。

AMASC会長,執行部の方々,又各国会長,再来日のシスタ一方,そして同窓生,友人の皆皆様へ。

本日,世界中の聖心同窓生が一同に会しました事は,まことに喜ばしい事であります。この数日間,皆様方は再会を楽しまれ,世界の各地,各国の同窓生を結束させる,この高雅な目標に向って御奉仕なさり,又,大会行事,日程,活動などには慎重な検討を重ねていらっしゃることと存じます。

まず最初に申し上げたい事,それはこの栄えある集りに講演の御依頼を受けた事で,これは私にとりましてこの上もない喜びでございます。私がこの名誉ある役目をお引き受けしたのは,私達が急速に変り行く世界の持つ難問を共に直視しながら,私の考えや関心を皆様方と共に分ち合えれば,と願うからであります。この急速に変り行く世界では,平和に仲良く暮すことを学ばねばならないのですが,現実は余りにも苦しめられ,分裂しています。私は学習のテーマに,「異文化間のコミュニケーション」を選ばれた主催者に心から賛意を表します。皆様はこの課題が含む途方もなさについては,一応の理解,認識を持ってここにお集まりになったに違いありません。皆さんは,私達が文化的に多様なグループや人々の間で,コミュニケーションの達成が出来るとお考えになっての上の事でしょうから。人々を引き離すあらゆる相違点を克服する為にコミュニケーション自体は充分な物ではないにしても,コミュニケーションが人々に橋渡しの手がかりである事は疑いの余地もありません。

異文化間の交流なる問題に取り組む時に,第一にとるべき処置は我々が伝統,文化,願望に関して,多様な世界に住んでいるという事実を認識する事です。私には国連とのつき合いの中で,世界の到る所からやって来る人々を知る特典があります。国連の様々な討論の場で母国の代表として勤務していた間,この世界を構成している人々の間の相違点のみならず,実に大きな多様性を実感しました。国連には現在,159の加盟国があり,159の国家が権利を主張しています。人ロ10億以上の大きく人口密度の高い国もありますし,人口が10万に満たない小さな島や地方自治体もあります。国家という枠を越えた異った民族同志の集まりや,それと同じく多くの宗教団体,言語団体があります。

生活程度という問題になると,豊かな北と,権利を奪われている南の人々との間には,実に大きな差が見られます。しかし南でも新しく工業化された国々は,急速な発展を遂げています。世界で,20ヶ国だけが一人当りGNP$2500を越えていて,40以上の国がGNP$250以下である事を知った時,実に愕然と致しました。しかしGNPの示す数字が人問生活の中で持つ意味を悟った時,私は本当にゾッとさせられました。$2500以上の豊かな国に住む人々の平均余命は70歳を越える一方,最も貧しい国々の平均余命は,かろうじて40歳に延びたところなのです。どこで生まれたか,という事が,あなたの生存や,清潔な水や,健康に関してのケアや,雇用される事に影響を与える教育へのチャンス等の可能性を決定するのです。

私は地理的,社会的,経済的要素を引き合いに出して来ました。なぜなら,そのような物は文化として今日知られる物である人間の行動様式の特徴を長いことかかって形成するのに役立つという点では,人間の一生を左右してしまう程の物だからです。今日,ここにお集まりの方々にとりまして,今回は初めての訪日であり,又,初めて日本文化に接するという方も多いと思います。それで,私共の文化の特徴と,その国際関係とのつながりについて述べさせて頂きます。

日本は古くからの島国であり,人口密度が高く,天然資源に乏しい国です。地理的には広大なアジア大陸のはずれにあり,文化の進んでいた隣国の中国や韓国の影密を濃密に受けています。しかし,島国である事の現実が,日本の安全と異質な独自性が保たれるのを可能にしました。何世紀もの間,日本は,日本独特の言語と文化を共有する社会を発展させて来ました。そのような自然的,歴史的背景から,日本人は勤勉という特徴を持つ労働様式を発展させました。

今日,かなり国際的に批判をされて来ている日本人の労働の気風について,少々問題にしてみたいと思います。乏しい自然環境は厳格な儒教的労働倫理と結びつき,人生哲学として労働にのめり込む考え方が日本人に生まれたのです。戦前の模範的な人物像は,二宮尊徳で,その像は日本中の公立小学校の校庭に建てられていました。彼は日本のベンジャミン・フランクリンと言ってもよく,早起きをして手伝いを済ませてから,山へたき木を取りに行く道々,その往復には必ず本を読みながら歩くという人でした。後日,彼は出世し,他人を助けてやれるような地位につきます。日本人の労働習慣は,日本人が敗戦と貧困から立ち上がろうとしていた戦後の日々に,一層強められました。経済復興と発展は,戦後の日本人にとって唯一の国民的目標になったのです。海外では,日本は日本株式会社などと受けとられています。日本の国民は実業と政府と政界の指導者が経済的実績を達成するために共謀していると言われています。日本人は,しばしば経済的動物などといった汚名を着せられています。

日本の経済が西側の工業国の多くを圧倒し,日本の貿易が常に輸出過剰を示し始めた時に,日本とアメリカ,又は欧州との関係に,貿易摩擦が目立って来ました。エレクトロニクスから自動車,牛肉,オレンジに及ぶ一連の交渉が行われました。今日,日本はアメリカに対し,500億ドルの貿易黒字を抱え,その規模は世界貿易の内でも最も爆発的な問題点になっています。日本のワークホーリズム(働き中毒症),貯蓄率の高さや複雑な流通機構には,激しい非難の声が浴びせられました。時として,これらの非難は,日本人には根拠のある批判というより,むしろ侮辱として受けとめられています。何故なら日本人は,一生懸命働く事に信念を持ち,その勤勉の賜物に大きな誇りを持つ傾向があるからです。日本人は,この伝統的な価値を多くの外国人が競い合えないという理由だけで,ゆずらねばならないのでしょうか。日本人は,それ程働かずに,又,能率を落さねばならないのでしょうか。私は,今日,この摩擦問題は文化的なものであると思うのです。日本の場合は,多くのヨーロッパ諸国と違って文化の伝統があるので,文化の相違点が目立つ傾向があり,その為に激しい感情的な論争の対象になるのです。

異文化間の交流は,協力,協調の可能性の障害となるような国際間のある種の誤解を改善するのに大いに貢献するだろうと思います。けれども皆様方がどんなにお互いにわかり合っても,ある程度の行動が起こされなければ,私が述べているこの種の問題には,一致は生まれないでしょう。日本の経済界での行動に関しては,私は日本人が彼等の経済活動が国際的に密接な関係を持つ事を,もっと認識せねばならないという事を付け足させて頂きたいのです。たとえ勤勉がどんなに賞讃に値すべきものでも,もし彼等の勤勉の結果がすなわち工業製品が外国の市場になだれのように押し寄せ,人々を失業させるのであれば,日本人の国力を行動を新しい方向に向ける為に,何かが為されなければなりません。これらの問題への総合的な答えは御存知のように,日本の市場をもっと開放し,国内の需要を刺激することであります。日本人にとって最も難しい事は,釣り合いのとれた全体としての相互扶助的国際経済システムの維持に彼等の行動がどんな影響を与えているかを認識する事なのです。

日本の聖心同窓生は異文化間の交流に於ける日本人の経験について立派なリポートを作成なさいました。このリポートは今,日本はいかに異文化間の交流の中で,新参者として新しい取り組みに苦慮しているかを,はっきりと指摘しています。このリポートは,日本人以外の国民が日本で生活し,日本人と日常的なつき合いを始める時に出会う文化の違いについて,実際に経験したデータを沢山載せています。日本はアメリカやヨーロッパが持つ移民や,季節労働者などの深刻な問題の制約を受けない事に,おそらく気が付かれるでしょう。しかし私達は在日韓国人の人権,居住の問題を対処せねばならないというように,少数民族の問題が無いというわけではありません。又,私達は難民として日本に定住しようと決めているインドシナの人達や,又,その数が増えている外国からの学生や研修生,そして仕事その他で日本に住んでいる外国人とのおつき合いも始めています。日本自身が更に国際的な社会に転じている今,日本人はより大きな国際的な舞台で,もっと積極的に交流する事を学ばねばなりません。

私は異文化間の交流が含む困難な点に,特に日本人が経験する問題について,ある期間直接対応に当ってきました。私は悲観的な見方はして来なかったつもりです。逆に,共通の目的をめざして働く為に人々を結集させる手段としてのコミュニケーション(交流)の役割に高い望みを抱いています。私達はよく,知識面や科学技術面の発見が進んでいるにもかかわらず,世界が何の進歩もしていないと嘆いたり,絶望したりします。たしかに戦争や対立も収拾がつかず,豊かさが進んでいるさなかに,何百万もの人が飢えています。人権侵害に対する保護手段が出来て来たにもかかわらず,拷問や正当な法的手続きをふまぬ即決処刑などが行われています。一体どこに進歩があるのでしょうか。人間は共存するすべを学んだというのでしょうか。

私が見聞する限りは,ここ数十年改善は見られて来ましたが,それは人間が共通の問題を解決し得たという事より,むしろ情報を分け合ったり,資源を活用させたり,協力し合ったりするようになったという事でした。私が個人的にかかわって来た国際間で行われた活動のいくつかについて話させて下さい。難民援助の問題について考えてみましょう。今日,アフリカ,中東,アジア,中央アメリカには,1200万から1300万の難民や流民がおり,これらの人々は政治的,或いは経済的,或いは環境的な理由,又はこの三つが組み合わさった理由の為に,故国を離れざるを得なくなったのです。人間の大量国外退去は実に現代の特徴であります。この動向は追い立てられた人々にも,又,その人達から影続を受ける人々にも及んでいます。

1979年に私は,インドシナ難民調査団団長としてカンボジア難民に援助の手をさしのべる為に,タイヘ行きました。その年,私はユニセフ理事会の議長をつとめており,カンボジア難民支援は,当然インドシナ難民援助活動に含まれていたわけです。難民問題に関しての私自身の体験から言えば,二,三の事を学んだという事です。その事について,今日皆さんにお話し出来るのは幸せだと思っています。第一に,この世界は善意の人々に充ち溢れているという事,悲劇的な事が起ると救援にかけつける人々がいるという事です。この事に関して私の調査団に委託される事になったカンボジア難民への最初の支援は,聖心同窓会により為された事を思い出し,嬉しく思います。この人道的な反応を誘発するのは,しばしばマスメディアであり,この事はコミュニケーションの重要性を示しています。例えば,エチオピア援助の場合,BBC放送のエチオピアドキュメンタリーが西側諸国の救援活動を惹き起こすのに役立った事は周知の事実です。一般の人々の反応は率直で,自発的であり,たいてい決って食糧,薬,衣類などを送ってくれます。しかしながら,しばしば援助にからむ諸経費については,わかってもらえない事があります。すなわち,品物を送るには輸送量と,それを扱う人件費が要ります。緊急救急活動はボランティアの人達にしてもらえますが,緊急支援には,それを能率的な組織にしたいとすれば専門的な取り扱いが必要です。ところが物資を無料で送ってもらいたいと思っており,又,諸経費が含まれる事は善意に反するものだと考えている人々に,沢山出会いました。

輪送の問題は救急支援を開始する時の実に大事な要素であります。私は,1981年に初めてプノンペンに行った時の事を思い出します。小さな港を建設し,クレーンやトラックを持ち込み,飢えている人々の口に食物がちゃんと届くように,事前に道路を作らなければなりませんでした。当時のカンボジアは完全に破壊されていました。最初の様々な段取りに加えて,小型トラックの修理工場を作る事からユニセフは始めなければならない事を知りました。トラックは地雷が仕掛けられてある恐ろしい道路の為,しっかり重装備され,その為,部品も積み込まれ,人々も修繕作業の訓練を受けねばなりませんでした。タイやカンボジアで,これ程多くの献身的な人々が,あらゆる国からやって来て,政府やボランティア団体の代表として共通の人道的な目標の為に,しっかりと力を合わせているのを見て,実に報われた思いを致しました。

第二に学んだ事は,当初の支援を続けていく事の難しさです。殊に,緊急事態がしずまった後にも,一般の人々による支援を維持していく事の難しさです。支援発展グループ(支援を更に進展させていくグループ)は,緊急支援グループと区別されるべきです。しかし,今日難民の流出は,もっばら発展途上国で生じ,貧困は人々の大量移動につきものであり,その為,難民自身ばかりでなく,その難民を受け入れる国の人々がこうむる救援の影響なるものに対して,外部から暫定的な手段が講じられるべきです。ある場面では,国際的な緊急支援そのものが,その国の人々を,彼等の居住している村から移転させるような事態を惹き起こす事になったのでした。もし救援が,定住している人々の所にも届かずに,その外部の中心施設のみ集中すると――もっとも,それは救援を送る側には簡単かつ実際的処置ではありますが――,定住している側にとっては彼等の故郷を失い,二度と帰れない事になるのです。私が経験した限りでは,カオイダンの難民キャンプに行く途中,こうして窮乏したタイの村落を通り過ぎて行ったのを覚えています。私が1981年に当地へ行った時に,そのキャンプは,しかるべく設営された村となり,菜園付きの前庭がある,きちんと屋根をふいた家々が建てられていました。キャンプの組織者による衛生設備拡張運動もうまく行き,難民達が清潔な家や設備が保証されたと自覚した頃に,野菜栽培用の種も支給されました。このキャンプの光景は,難民の流入にひどく影響を受けたタイの村民の生活程度に比べると,ずっと高いものでありました。緊急支援活動以後の国際活動計画は,一時的な救援活動と密接に行われねばなりません。たとえ長期に亘る処置が国際的な共同体から得られにくいとしても,そのような計画作りがなされなければなりません。

この件に関して,ちょっとしたエピソードを紹介させて下さい。エチオピアの飢饉が広く知られるようになった時,ユニセフは日本に100万枚の毛布の呼びかけをしました。これは有名な日本人の俳優が音頭をとって全国的な運動になりました。その毛布の他に,輸送費の援助を求められました。この組織活動の結果,170万枚もの毛布が集まり,輸送用の資金も残高が出,その分は最近,アフリカの学生の奨学資金に廻されました。ここまでは,まあまあ順調なのです。この話は私達日本人の人道的な危機に対しての心の寛さを示しています。ところが私が母国のこの進んだ状態を,開発担当のオランダ人のある役人に話したところ,彼は彼の母国での呼びかけに対する複雑な反応に出会ったという事を話してくれました。一般からの問い合わせ電話の半数は批判的なもので,彼等によれば,この毛布を送るという一時的な処置は勧められないし,もし援助が必要ならば,他の長期開発活動と連携されるべきだという事でした。オランダ人というのは,この開発援助運動に関する限りは経験にとんだ考え方をするものです。というのは,彼等は第三世界に対して長期に亘る援助活動の傑出した記録を持っているのです。オランダの人々は緊急援助の落し穴に気がついているのです。私はこの話に本当に感心したものでした。

私が知った三つ目の教訓というのは,国際的な難民援助の持つ政治的な深刻な面です。色々な難民のグループに差しのべられた支援の量が必ずしも公平に分けられていない事に気づいた方もいらっしゃるかもしれません。この差は救援の必要量とか,当時の物資の入手の可能性などによってもたらされたものではありません。一つのグループヘの援助の額には政治的な考慮が影響を及ぼしているのです。インドシナ難民は,アフリカ難民グループよりずっと多くを受けています。又,インドシナ難民の間でも,タイのキャンプの難民は,国境にいる難民に比べてかなりの物を受け,又,彼等はカンボジア国内の難民よりも多く受けています。カンボジア国内でのカンボジア被災民への緊急援助が一旦潮を引くと,「緊急援助活動以後に引き続いて行なわれるべき活動」にとりかかれるような,西側諸国からの援助は殆んど無きに等しいのです。外的支援を阻止するのはカンボジアにおけるベトナム人の存在です。しかしながら,クメール人を助ける西側ボランティアグループがプノンペンにあります。プノンペンの近代的な小児病院を見て本当に報われた思いがしました。この病院は,私的なアメリカ人組織により援助され,若いテキサス出身の小児科医が経営しています。このボランティア機関の代表者は「政治的にこみ入った事柄は知りもしないし,気にもかけない。」と言っていました。しばしば奉仕的組織は政治的な障害物をとり除く事が出来ます。良きにつけ,悪しきにつけ,政府は難民問題の解決には苦心していますが,難民は政治的な理由で政府から無視されている為に,より以上苦しめられたままにされる事もあるのです。

難民援助に含まれる努力は過去40年間に進展した国際的な共同活動の一つの,たしかな例でしょう。難民援助への国際的な共同体が存在していると言っても良いくらいです。しかし,だからと言って難民問題が解決されたり,解消されたりするわけではありません。この国際的共同体の次の目標は,多くの人々が国外流出をしないように早めに勧告をし,流出を防ぐ為の協力などの方法を工夫する事です。私が属している国際人道問題独立委員会(The Independent Commission for International Humanitarian Issues)は,他の諸問題の中でも,この大変深刻な人道問題である難民の流出を早期に防ぐ手段を検討する事に的を絞っています。

難民援助への国際的な共同活動ほどには歴然としてはいませんが,人権保護の分野でもかなりの国際的な協力が推進されて来ています。私はAMASCが人権問題に関する活動に関係されていることを知っており,皆様方も国連や色々なボランティア組織が行った活動をよく御存知でしょう。私は過去4年間,国連人権委員会で政府代表を勤めてまいりました。国連はこの分野において,法律文書(legal documents)を備え,発布する事などの基準を整える事から,その履行,即ち調査による人権侵害を監視し,個人,又は政府によらない組織からの情報に従って行動を起こす迄の措置を講じています。人権がその国の国内的司法権の範囲にとどまる内政的な事柄だと見なされていた時代はもう過ぎたのです。国際人権規約,人種差別に対する条約,婦人差別に対する条約等,これらの条約には加盟国に属する個人が侵害されたとして訴えた苦情を処理する委員会を設立する旨の履行条項が記載されています。しかし法律文書の採択や,組織的な監督にもかかわらず,人権侵害は世界の到る所で行われています。この事から,政府に依存していない協同グループの活動が,いかに費重な物かお分かりでしょう。彼等は組織的に支援を必要とする人に援助を与え,又,侵害の存在を公けにしています。

皆様方に注目して頂く価値のある活動,それは人権擁護の範囲を政治的,市民的権利に限らず,もっと拡げていく事でありましょう。特に発展途上国の多くは,経済的,社会的権利の伸長に大きな関心を持っています。二,三年前,国連の中で,このセットとなっている二つの権利の優先権の問題について,かなりの対立がありました。西側諸国は従来の政治的,市民的権利の助長を主張し,一方,発展途上国は経済的,社会的権利が向上しない限りは,政治的,市民的権利は確立されないと,反論しました。日本での私達の経験は,このセットされた二つの権利が互いに関連し合っている事を示すように思えます。高度な教育水準と健康への配慮が維持されている社会的環境では国民はより大きな政治的な責任を負うように思われます。しかし私は,基本的な教育の改善や,初歩的な健康への配慮が行き届いている事が必ずしも自由主義的な政治形態を生じさしむる物ではないという事実も認めざるを得ません。

私がここで述べた国際的協力活動の全てに於て,分ち合いの姿勢を保ち,共同作業に着手する点では,世界中から集った人々が,かなりの進歩を示しました。私にとり,より身近な人権問題の分野を引き合いに出しましたが,国際通貨の安定,安全輸送,環境保護などの多くの活動分野でも国際間の協力が実証されています。私達のこの時代を,同じ目的を持った者が協力しつつ頑張り,又,その活動のロケット発射台としての国際的共同体を作る試みがなされている,そのような時代だと見なす事,それはただの希望的観測ではないだろうと思います。

今日,皆様はある種の共同の仕事を始める為に,マリアンホールに集まっておられます。世界中から1000人もの卒業生が出席なさるという事は,聖心会の創立者,そしてこの大学の創立者が正に夢にも思わなかった事でありましょう。世界中から女性が時間とお金をやりくりして数日間,東京に来る事が出来たという事実,一日足らずの内にここに飛行機で来られるという高速輸送システムを利用出来たという事実,又,近代的同時通訳の活用により,じかにコミュニケーション出来るという事実,このような世の中の好転が過去にあり得なかった規模での交流と協力を可能にしたのです。聖心同窓生の連合的な心意気がより良い,より人間的な世界の建設に重要な影懇を与える事が可能であり,又,そうすべきであると思います。私は皆様方の行く手に待ちかまえている仕事に,是非,挑戦して頂きたいと思います。御清聴有難うございました。

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AMASCあれこれ

大会終了後には、会期中の様子を記録した冊子『AMASCあれこれ』を編纂。

当時のJASH会長三田千世、AMASC会長だった小堀玲子、AMASC準備委員長の須賀敦子の各氏による巻頭言にはじまり、各催し会場でのこぼれ話まで生き生きとまとめられており、当時の熱量が伝わってきます。